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インタビュー&コラム
松田 次泰さん (刀鍛冶)
【インタビュー1】
松田 次泰さん
次泰鍛刀場
日本刀作家
マツダツグヤスさん
高松宮記念賞をはじめ多くのコンクールで受賞。松田刀匠に、日本刀の美術性を中心にわかりやすく語っていただきました。あなたの知らなかった世界がここにあります。

松田次泰さんの仕事が本になりました。
「日本刀・松田次泰の世界 -和鉄が生んだ文化-」
作・画 かつきせつこ
企 画 松田次泰、かつきせつこ
雄山閣出版
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北海道教育大学特設美術科ということで、学校の先生を目指す方が多かったと思いますが、松田先生も美術の先生を志望されていたのでしょうか。

僕の出身地が北海道だったんです。絵描きになりたくて、大学へ進学しましたが、北海道で絵を専門的に教えてくれるのは、北海道教育大学しかなかったというのが本当のところです。
美術の先生になるための勉強だから、授業のレベルは、残念ながら、相当落ちるんですね。また、北海道には、東京にあるような有名な美術館や博物館がありませんので、本物の絵を目にするチャンスがありませんでした。
この環境だと絵描きにはなれないと思って、大学三年生のときに、親を説得して、一年間の休学という条件で、東京の予備校に通わせてもらいました。
一年後に、芸大を受験しました。実技は、一次、二次試験と通ったんですが、最終的に三次試験の学科で落ちて、再び北海道にもどり復学しました。
北海道では、絵描きになるための環境が整っていなかったということですね。
自分で言うのもなんですが、小さいときから、もともと絵は上手でした。
でも、東京の予備校に通うまで、有名な実物の絵を見たことがありませんでした。当時の北海道の美術館や博物館では、ゴッホであったり、セザンヌであったり、一流の絵画が鑑賞できる環境は整っていませんでした。本物の絵をはじめて見たのが上京した時期で、年齢的にはすでに二十歳を過ぎていました。
絵画を続けていく場合、環境というのは非常に大切です。絵が上手に描けるだけではだめなんです。常に本物の絵が見れる環境でないと、上手にならないと思いました。
東京には、海外の絵を鑑賞できる博物館や美術館などがあります。でも、油絵の場合、本場はやはりヨーロッパですよね。フランスやイタリアに行かなければ、壁画や一級の作品群は見れません。日本で西洋の絵を描くには限界を感じました。絵描きをあきらめました。
刀鍛冶という職業をどのような経緯の中で選択されたのでしょうか。
中途半端な作家にはなりたくありませんでした。大学に復学し卒業するまでの間、自分がやりたい美術は何かずっと考えていました。本物がたえず見れる環境で創作できるのは何か、生涯にわたって追求できる芸術は何か、と。
東京の予備校で勉強しながら、様々な博物館や美術館に通いました。当時は絵描きを志していましたから、絵画を中心に見ていました。もともと立体的な世界を表現したいという思いがあったので、平面的な構図の日本画は、僕の好みではありませんでしたが、仏像や陶器などの日本の伝統美術には強い関心がありました。
その中でも、刀はよく見ていました。子供のときから、時代劇に登場する刀に興味を抱いていましたが、実際、本物の刀を見たとき、すごいなぁっていう感動が湧き上がりました。
刀製作の場合、環境という意味では日本がもっとも適しています。常に見たいときに見れます。そして、なにより、日本刀は、素晴らしい美術品です。大学卒業後は、刀鍛冶になろうと決意しました。
卒業後に、すぐに刀鍛冶のお弟子さんになられたのですか。
大学卒業後、再び上京して、美術館や博物館などに通い、刀の勉強をするとともに、自分の師匠探しからはじめました。
人間国宝宮入昭平先生の作品に魅かれました。宮入先生の鍛刀場は長野県にありましたので、直接出向き、弟子入りを志願いたしました。当時、たくさんのお弟子さんがいましたので、宮入先生のところに二十年以上いた一番弟子の高橋次平先生を紹介していただきました。
弟子入りのための試験があるのですか。
「北海道出身」というだけで、弟子入りを許可されました。
新潟とか福島とか、寒い地域の人間は弟子になってもやめないらしくて、地域性なのでしょうか、実際、その通りなんですよ(笑)。そのとき、24歳ぐらいでした。それ以降、刀鍛冶としての修行がはじまりました。
修行は何年ぐらい続きましたか。
僕らの仕事は、独立するまで十年ぐらいなんですよ。
最近はみんな大学を出たりしているものだから、修行が終わると、三十前後になってしまいます。僕の場合も、七年修行をしましたので、そのときには、31歳ぐらいになっていましたね。
長野県で修行をされて後、千葉県にいらっしゃいましたが、何か理由はあるのでしょうか。

独立するとお金がかかります。仕事場やスプリングハンマーなどを購入するためには、500万〜1000万円ぐらい必要になります。
今の子供の親は、ほとんどが会社員です。独立のための資金は、親の退職金を前借りしたり、親の土地を求めて、故郷に帰っていくケースが多いんです。
僕の場合、かつて絵描きを目指していましたが、創作の環境に納得できず断念したという経験があります。だから、独立したさいには、本物の作品をいつでも見れる東京近郊で、仕事場を構えたいという思いが強くありました。
僕の師匠は、砥師(とぎし)さんやハバキ師さんなどの職人たちに大変信用のある方でした。砥師(とぎし)さんの世話で、千葉県船橋市に場所を借りることができました。五年前(平成15年)に、ここ若葉区に鍛刀場を移すまでの、二十数年そこで作刀を続けました。
千葉県での生活はいかがでしょうか。
ここは、気候がよくて気に入ってますよ。
天災にあったことがありません。まず、台風が通りませんし、寒くもなく、暑くもなく、まぁ、北海道から比べると、どこだっていいと思いますけど(笑)。周辺は農家が多く、静かで、のどかで、過ごしやすいと思います。
松田先生の修行時代はどのようなものでしたか。
入門してから4年ぐらいずっと炭切りばかりやらされていました。刀をはじめて作らせてもらったのは、6年目でした。
僕の師匠は、大変厳しい方で、僕以外、弟子はみんな辞めていきました。厳しい弟子の時代には、我慢する、辛抱強さを学びました。ただ、ひたすら我慢していましたから。
松田先生は、師匠と同じやり方で、お弟子さんに厳しく接しているのでしょうか。
昔のように、4年間も炭切り仕事だけをさせたりはしません。順次様子を見ながら仕事を覚えてもらいます。
刀鍛冶になるには、内弟子として5年以上修行をするという決まりがあります。
僕の修行時代、師匠は、衣食住すべてに責任をもって、同じ屋根の下で共同で生活させながら、面倒を見ていました。
ただ、現在は、刀鍛冶にかぎらず、大工さんもそうですが、そんなことをやっていたら、弟子は育たないんですよ。弟子には、アパートなど自分の住まいから通ってもらってます。そうしなければ、みんな辞めていきます。
今の時代の子供は、プライベートは干渉されたくないんでしょう。現在、昔の時代のようなやり方で、弟子をとっている刀鍛冶は少ないと思います。
現在のような師弟関係になった要因として、時代背景も含めて何かお気づきの点はございますか。
そうですね、一昔前までは、弟子は、食べていくために中学を出てすぐに親方のところに転がりこんできました。そのため、人として精神的にも未熟でしたので、仕事を教える前に、人間教育が必要でした。
でも今は状況が違います。弟子となる者は、僕もそうですが、大学を出て、人格がある程度形成された状態で弟子入りします。
二十歳をこえた人間に、子供のように、生き方を説き、人としてのあり方を改めて教えること自体、矛盾があります。企業だって同じですよね。何年もかけて、人格形成のために時間を割いたりはしないでしょう。
僕にも、自分の仕事がありますから、ひとつひとつ生活態度などに口をはさんでいたら、仕事にならないですよ。だから、仕事をどのように進めていくかを中心に教えています。学校形式で仕事を学んでもらうようにしています。
就業の時間も、僕らの時代は、朝五時に作業場にはいりました。夜の七時八時ぐらいまで仕事は続きました。今、僕の弟子には、朝七時半ぐらいまでに職場に来てもらって、五時になったら帰っていいし、残りたい者は残って作業を続けてもいいよって、言っています。
僕が思い描いていた、刀鍛冶のお弟子さんのイメージとはかけはなれています。かなり厳しい生活を想像していましたので。
これは放任ではありません。仕事のやり方はきちんと教えますが、工程のひとつひとつをつきっきりで指導したりしません。
弟子もうるさがるだろうし、僕もできないところを見ていると、腹が立ちますので、仕事を与えて、出来あがった作品の状態を見て、アドバイスを与えるというやり方をとっています。
刀鍛冶になるためには、五年間は内弟子の期間を過ごすという法律があります。しかしながら、五年を過ごせば誰でも刀鍛冶として生活していけるわけではありません。
早く覚えるか、遅く覚えるかは、その弟子の自覚や、刀に対する情熱の問題です。これは、教えて身につく事柄ではないと思います。
お弟子さんを、今後は増やしていきたいと考えていますか。
僕は、ずっと弟子はとらなかったんですよ。
まず経済的に難しかったという状況がありました。
また、漠然と刀鍛冶になりたいと言ってくる者に対しては、断っていました。
僕以外にも、刀鍛冶はたくさんいます。なぜ僕を選んだのか、その答えをしっかりと持った者でなければ、僕のところにいる意味はないと思うんですよ。それだったら、違う刀鍛冶のところへ入門してもよいことになります。
僕の場合は、自分なりに刀のことを勉強し、人間国宝宮入行平先生に憧れて、刀鍛冶になりたいと門をたたきました。家が近いとか、ただ刀鍛冶になりたいと言ってくる人の気持ちが、正直わからないのですよ。
職業として、日本刀を作りながら、生計を立てることは実際可能なのでしょうか。
刀の世界で生計を立てるのは、非常に厳しいと思います。
だた、どの世界でもそうですが、コンクールで賞がとれたりすると、ある程度の生活はできるようになります。
陶芸や、絵画に比べると、刀の場合は、年間に製作できる本数が法律で決まっています。二週間に一本、一年で二十四本までしか製作できません。その意味では、数が少ない美術品であるともいえます。
その希少性のおかけで、自分の仕事場をかまえた後、地元の愛刀家や友人などがつきあいで買ってくれる機会はあります。その点では、絵や陶芸などで生活していくことのほうが厳しいでしょうね。
ただし、よほど作品の質が高くなければ、同じ人が何本も買うなんてことは見込めません。つきあいで買ってもらえる期間内に、コンクールで賞をとるなど、何かしらの実績を出せないとすれば、継続して刀で生活を続けることは難しいと思います。
作家能力で刀を売るというより、営業能力で海外で販売している者もいますが、いずれにしろ、贅沢はできません。
生活はギリギリ、明日はどうするのという状況で、家族と喧嘩しながら、ごまかしながら生計を立てているのが実際のところです。
